エピソード

タイトル:孤独の海を泳ぎきるために

元旦、夜明け前。

まだ初日の出すら拝んでいないのに、私は机に向かっていた。年末年始を悠々と休めば、1月と2月には瞬く間に仕事が雪崩を打って押し寄せる。ならばいっそ正月すら返上して働く方が、よほど心が安まる。諦めたものは数え切れないが、いい。私は自分で選んだ道を真っ直ぐに進むだけだ。

スキーやスノーボードにうつつを抜かすような余裕は、はなからない。もし、「私をスキーに連れてって」なんてわがままを言う女が現れたら――その瞬間、私は脳裏で彼女を殴り倒す妄想でもするしかないだろう。実際には手を出すことなんてあり得ないが、少なくとも私の世界には、そういう大きな回り道を選ぶ余白はない。
「すべてを手に入れた」などとドヤ顔で語る人間もいるが、よく見れば背後に穴が開いている。それはきっと誇るようなものじゃない。戦場で負った傷を勲章だと錯覚しているだけ。私の見方が偏っているだろうか?いや、そう思うのならそれでいい。私はあくまでも、自分の筋を通したいだけだ。

そんなふうに自分の信じる道をひたすら走り抜ける生き方をしていると、どうしても一人の時間が増える。ときどき寂しさが胸をつく深夜もある。しかし、それを“哀れ”と見るのは大きな勘違いだ。

昔、福島区の会計事務所に勤めていた頃、所長の奥さんがこう言ったことがある。
「ひとりで酒場にいる男性を見ると、涙が出そうになっちゃうの」
だから私は返した。
「奥さん、それは勝手な思い込みだ。世の中には、ひとりで飲むのが至福のときって人がたくさんいるんだよ」
意外そうな顔をした奥さんは、「そんな人が本当にいるの?」と目を丸くした。そりゃあいるさ。世の中には“飲んべえ”という単語があるくらいなのだ。

そういえば学生時代、私は毎日のように高尾山を走っていた。あの頃はまだ“トレイルラン”などという言葉すら定着しておらず、普通の登山者からすれば異端者扱い。若い男女四人組が「頭おかしいんじゃないの?」とコソコソ言うのが聞こえてきて、思わず体中の血が煮えたぎった。

“誰にも迷惑をかけていない。好きでやっているだけだ”
そう思うと理不尽な怒りが込み上げ、猛烈な勢いで突撃態勢をとった。彼らが慌てふためいて逃げていったのを見たとき、心の中で「この腰抜けが。ほっとけ!」と唸っていた。人の勝手に口を挟むな、という思いは今も変わらない。

時代は変わった。いまは“一人カラオケ”が堂々と成立する。私の長女が、ひとりで6時間もカラオケを楽しんだと聞いて、“ああ、便利な時代になったものだ”と思わず感心する。一人で酒を飲もうが、一人で山を走ろうが、一人で飯を食おうが、一人カラオケをしようが、別に誰にも咎められはしない。昔なら陰口を叩かれがちだったそんな行為も、今や自然に受け入れられている。集団主義から脱却し、誰もが自由に生きる道を選べる社会。それこそが、私の求める理想形なのだ。

もちろん、そこには自己責任と法令遵守が必要になる。自由は甘やかしとは違う。だが、周りからとやかく言われない権利は、誰にだってあっていい。

結局、私は仕事を選び、冬の余暇を諦めた。その選択肢を誇りに思うわけでもないが、後悔もしていない。自分が本当に好きでやっているのなら、他人の目なんてどうでもいい。もしこの生き方を“哀れだ”と言う人がいるなら、それはただの思い込みか、あるいは彼ら自身の“物差し”に自分を当てはめようとしているだけ。私は私の“物差し”を守り続ける。そうしなければ、年末年始の暗い夜を越えて、次の朝日を見ることなどできないから。

深夜、仕事終わりに一人でコップを傾けながら、私はふと想像する。もし誰かから「スキーに連れてって」と言われたら、私は今度こそ殴り倒すのではなく、笑って“無理だよ、仕事があるから”と断れるだろうか。いや、もしかしたら今回も心のどこかで拳を握りしめているかもしれない。それでも、私には私のレールがある。“大切なものを通すためには、何かを諦めるしかない”という真実を、身をもって知っているから。

それでいいんじゃないだろうか。それこそが、自分らしく泳ぐということだ。一人で飲む酒の味も、誰もいない山道を駆ける爽快感も、世界一自由で、世界一孤独。だが、たまらなく贅沢で愛おしい時間。傍から見てどうあろうが、私にはこの一本の筋しかない。やがていつの日か、人々が心から“ひとり”を楽しめる社会が当たり前に訪れますように。誰もが他人の生き方を尊重し、好きな道を歩めるように――そう願いながら、私はまた、元旦早朝のデスクへ向かう。






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